うつかんの本棚

うつ病になったアラサー看護師→現在「専業うつ」。病気・読書から得た情報を発信します。

うつ病の私が「死にたい」と言わない理由

 

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    以前職場で働いていたとき、患者さんの暴言や暴行が酷いときがあった。休憩中職員とその時のことを話していた時に、私が「何かあったとき、その場で人を怒ったり、叱ったりするのがすごく苦手でできない」と言うと、ある職員が「子どもの頃叱られたことなかったんじゃないの?」と馬鹿にしたような口調で言ってきた。正直嫌な気持ちしかしなかったが、私は相変わらず、その場で怒ることができなかった。私の過去を知らないくせにと思った。

 

    以前のブログ記事を読んでくださっている方はご存知のことと思うが、私はうつ病の父親に育てられた。そのことで色々と苦しい思いもした。(詳しくは以前の記事を読んでください↓)そのことを知らないくせに、人の過去を決めつけるような発言が苛立たしかった。

 

sorsora-utsu.hatenablog.com

 


    その後、私なりに何故その場で人を怒ったり叱ったり、自分の意見をぶつけることが苦手なのか考えてみた。

   

    ある意味、その職員の発言は正しかった。私のこの癖は生育歴から生まれたものだと思った。ただ、叱られなかったからではない。私は今では虐待と言われるような怒られ方や叱られ方をたくさんしてきた。(体罰や夜間に裸足で外に追い出される等)でも最も今の私に影響を与えたのは、やはり父の言動だったと思う。その当時は気付かなかったが、私は心理的虐待を受けていたのだと思う。

 

心理的虐待(しんりてきぎゃくたい)とは、著しい心理的外傷を与える言動を行うこと。例としては、言葉の暴力、罵声、暴言、恫喝、無視、拒否、自尊心を踏みにじる行為が掲げられる。保護者側に認識のない虐待例としては過干渉などが挙げられる。精神的虐待(せいしんてきぎゃくたい)とも呼ばれる。
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

    虐待というと、とても酷いことをされるというイメージが強い。しかし、上記の定義からすると、30過ぎた今でもそのトラウマ的光景がフラッシュバックして私を苦しめるし、それが今の私の言動や自尊心の低さに大きな影響を与えている。

   

    今まで気付かなかったが、振り返って初めて気付く。私は父の言動から著しい心理的外傷を受けていたのだ。

 

    心理的外傷を受けた人がどうなるかは分からないが、私の場合、自己防衛に走った。それは自分の意見や考えを外に出さないという方法だった。

 

    父はうつ病になってから、自分の気持ちを際限なく外に出した。「死にたい」という言葉や「いっそ殺してくれ」という気持ちも。。。きっとすごく苦しかったのだろう。死にたかったのだろう。そして、実際何度も死にに出かけ、その後を追い、夜中に家族で外を探し回る日々が続き、父は入退院の繰り返し。今ではすごくその気持ちもわかる。でも、当時子どもだった私には荷が重すぎた。包丁を持ってきて、私に「これで殺してくれ」と泣きながら訴える父の光景が今でも忘れられない。

 

    人に自分の考えや意見を伝えるのがこんなにも人に影響を与えるのだと、当時の私は知った。こんなにも人を傷つけるものだと知った。私は自分がそちら側(自分の意見や考えを一方的に伝えることにより相手を傷つける側)になるのが怖かった。だから私は私の考えを封印した。誰かに何か言われても我慢する癖がついた。私が我慢すれば相手は傷つく必要がないと思った。そして、自分自身も守れると思った。

 

    今では思う。私はAC(アダルトチルドレン)なんだと。

 

アダルトチルドレン(Adult Children)とは、「機能不全家庭で育ったことにより、成人してもなお内心的なトラウマを持つ」という考え方、現象、または人のことを指す。ACは自己認知の問題であり、診断的に与えられる言葉ではない。
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

    だから私はうつ病になった今でも、家族に「死にたい」とは言わないようにしている。正しくは私自身がそれを許さない。(「死にたい」と言うことが悪いと言っているわけではありません。そしてTwitterでは時々吐き出させてもらってます)
    それが正しいことなのかは今でも分からない。私のこの癖も、自分をもっと出すことも、きっと怖がらずに外に出せばもっと生きやすくなるのだと思うし、その方が周りの人にとって良い事も多いのだと思う。でも私はこういうところで不器用だ。上手くバランスが取れない。

 

    だから、外に出す練習として、Twitterやブログを始めた。正直この記事を外に出すのも怖い。でも出します。
    うつ病になって、何度も「なんでなったのか」「どうしたらもとに戻れるのか」を考えてきた。でも今では思う。うつ病は私の生き方を変えるためになったのだと。この機会にもとに戻るのではなく、変わろうと思う。そういう機会なのだと。
 恐怖心はなくならないかもしれない。でもこうして少しずつ、自分を見つめ返して、何かしら変わっていけたら、きっとこの病気とも上手く付き合っていけるのかなと、最近は思っている。

 

    以上、そらそら(@sorasorautsu)でした。

 

もっと気楽に、ゆるく生きる -発信のすゝめ-

 久々の更新になります。

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 最近、色々な方のブログ記事を読みました。

 私と同じように看護師をしていて病気になり仕事を辞めた方のブログや専業主夫として生活している方のブログ、ひきこもりニートの方のブログ、Twitterのフォロワーさんのブログ等。世の中には数えきれないほどのブロガーさんがいます。

 色々なブログを読んでいて思ったのは、皆さん様々な悩みや不安を抱えてはいるものの、それぞれのブログ記事の中では羽を伸ばし、語りたいこと、伝えたいこと、吐き出したいことを自由気ままに発信している、ということでした。

 私にはこれがとても素敵なことに感じました。それぞれのブログ記事には、言葉選びや文章の組み立て方、ジョークや話の落ち等、その人らしさ、人間性がにじみ出ていて、一種の芸術作品のようでした。語彙力がなく伝えるのは難しいのですが、とても素敵でした。

 

 私がここ最近ブログを更新できなかったのには理由があって…それはブログを書くからには誰かの役に立つ記事にしたいという気持ちや、伝わりやすい文章で書かなきゃとか、どう思われるだろうかとか、そうした葛藤や不安がありました。

 振り返ると、こういうところでも完璧主義が抜けてなかったんですよね。

 そういうことを考えると、書くことや書き方が制限され、自然とブログから離れていきました。

 

 …で、何を言いたいかというと、Twitterの方でもつぶやきましたが、私ももっと気楽に、ゆるく生きようと思いました。何を書きたいのか、何を吐き出したいのか、何を
伝えたいのかに重点を置いて、このブログが読みやすいとか、役に立つとか…そういうことは読者の方に丸投げして(笑) もっと肩の力を抜いて、さくっと書ける&読めるようなブログにしたいと思います。

 こういうところから生き方を変えるのもありだなと思いました。

 

 うつ病になってからは、お金も心の余裕も楽しみも減ってしまったけど、考える時間だけはすごくあります。

 マイナスな気持ちが溢れて、ループして、苦しむ時間も多々あります。そういう時は一度その気持ちを言葉にしてみる。そして発信してみる。すると不思議とその気持ちに一区切りつけられる。

 もし同じように負の自動思考で悩んでいる方がいらっしゃったらTwitterやブログでその気持ちを言語化し、発信してみることをお勧めします。

 私もこの記事を書きながら、なぜか心が休まり、謎な達成感を得ています(笑)

 

 ということで、更新頻度は多くはありませんが、これからはぼちぼち、ゆるく、気ままに更新していこうと思うのでよろしくお願いします。

 そらそら(@sorasorautsu)でした。

 

平常心

 

 とても久々にブログを更新します。

 そらそら(@sorasorautsu)です。

 お越しいただきありがとうございます。

 今回は「平常心」というタイトルで考えたことを書きます。

 

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 私には大切にしている一枚の絵がある。

 その絵は私のとても尊敬する人が描いてくれたもので、私はその絵を頂いた時から、私がよく使う部屋の一番目立つところにその絵を飾ってきた。

 特別貴重な物が描かれているわけではなく、額縁も至って普通のものである。

 

 その絵には、大きな楠木が一本描かれている。

 平原に一本だけ、大きな楠木が一本。

 まるでとなりのトトロに出てくる楠木のようだ。

 その楠木は青々とした葉が茂り、地面にしっかりと根を張り、堂々と立っている。

 欠けたところが一切ない、完璧な木のようだった。

 そしてその絵の隅には、毛筆で書かれた「平常心」という字が力強く書かれている。

 それだけの絵だ。それ以上でもそれ以下でもない。
 

 

 この絵を頂いたとき、私は人生の岐路立っていた。

 この先の人生どうすればいいか迷っていたのだ。

 そしてその決断を下すことができないでいた。

 最初この絵を見て、この絵の意味が分からなかった。

 どうして大きな楠木の絵をくれたのか。

 どうしてその絵の隅に平常心という言葉が書かれていたのか。

 その意味を考えていると、一通の手紙が同封されていることに気が付いた。

 

 その手紙にはこのように書かれていた。一部引用する。

 

 さて、今日は一枚の絵を描きました。楠木です。この大木はなにげなく立っていますが、おそらく百年以上は過ぎていると思われます。これまでには色々の艱難・試練があったと思われます。あるときは大きな台風や強風、世の多くの事柄も見てきたことでしょう。あの戦争も見てきました。あるときは枝がちぎれて飛んで行ったこともあったでしょう。しかし、今は何事もなかったかのようにしっかり大地に根を張り、雄々しく平常心でおられます。
 私たちも、色々なことがあってもそれにくじけることのない、ゆるぎない心を持って、これからもよく備えのある者として終わりまで雄々しくあり続けることができますように…。「平常心」でいれるよう、生きていきましょう。

 

 手紙を読んで泣くという経験を初めてした瞬間だった。

 私は人生に迷っていた。

 この先どうすればいいのか。

 どこに進んでいけばいいのか。

 どのように進んでいけばいいのか。

 全てにおいて迷っていた。

 そしてその決断をすることを恐れていた。

 自分の選択によっては深い傷を負うかもしれない。

 取り返せない間違いを犯すかもしれない。

 漠然とした恐れと不安が私を覆っていた。

 そんなときに頂いた絵と手紙だった。

 「平常心であれ」その絵は私にそう語りかけているようだった。

 

 そしてその絵は今も部屋の一番目立つところに飾られていて、私を力づけている。

 うつ病となり、多くの不安に襲われ、もうだめかもしれないと思ったときに、この絵を見る。
 

 この楠木も辛いことがたくさんあったに違いない。

 戦争や台風・強風によってたくさんの葉や枝が飛ばされ、時には大地がえぐられ、立っているのも辛い時期があったかもしれない。

 しかしだからこそ、今はその根をしっかりと大地に張り、大きく、雄々しく、平常心で立っているのだろう。

 もしこの楠木が温室で、風やその他の外的危機を受けずに育っていたら……おそらく楠木はこんなに大きくなっていなかったであろう。

 その枝は細く、弱く、風が吹けば簡単に折れてしまったに違いない。
 

 私たちが人生で経験する艱難・試練もとても辛いものだ。

 これまでの人生を否定され、信頼していた友が離れ、もう立ち直れないくらいのダメージを受けるものかもしれない。

 もういっそ死にたいと思うこともあるかもしれない。

 しかし、そのような経験が私たちを強めてくれる。

 立派な木に育ててくれるのも事実である。
 

 人生で艱難・試練は避けて通れない。

 その艱難・試練は人によって異なるであろう。

 この絵は私に「平常心であれ」と教えてくれる。

 「がんばれ」や「努力しろ」や「耐え忍べ」ではない、「平常心」である。

 いつかこの嵐が自分を強く育てる。

 そう信じている。

 

 

 最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

キラーストレス-私のコーピング100個

 ストレスに埋もれそうです。

 そらそら(@sorasorautsu)です。

 お越しいただきありがとうございます。

 今回はNHKスペシャル取材班が出した本「キラーストレス」を読んで学んだこと、自分で実践してみたことを書く。

 

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 「キラーストレス」とは、学術用語ではなくNHKスペシャル取材班が考えた造語である。「ストレスが将来の死因になる」そんな警告を込めた言葉である。
 この本の冒頭で「生きていることとは、すなわち、ストレスとともにあること」という言葉があるように、まさに現代は超ストレス社会である。文明や科学技術が発展していくとともに、場所や時間を選ばず仕事ができ、私たちの生活は様々な情報で溢れている。そして私たちはそのような変わりつつある社会に「変化」を求められる。この「変化」こそ、ストレスであると、この本は定義づけている。
 何も借金や病気など悪い変化だけではない、結婚や昇進などの一般的に良いと認識されるようなことも変化に含まれ、私たちのストレスとなるのだ。自分自身にどのくらいのストレスがかかっているのか、人はあまり認識していない。そこでライフイベントストレスチェックというチェックリストがある。このチェックリストに沿って加点していくと、「260点以上なら、ストレスが多い要注意の段階」「300点以上なら病気を引き起こす可能性があるほどストレスが溜まっている可能性がある段階」というように、自己のストレス値を客観的に把握できる。もしご興味があればチェックしてみると良いだろう。(http://www.nhk.or.jp/special/stress/01.html

 

 どこに行ってもストレスだらけ、そんな現代でも究極のストレス職場と言われている場所がある。それは「宇宙」である。宇宙ステーションでは、限られた狭い空間に、文化も習慣も異なる宇宙飛行士が長期間生活し、文字通り地球とは全く異なる環境で生きていかなければならない。とても過酷な職場である。そんな環境で生活する宇宙飛行士の健康を長年サポートし、JAXAの総括医長である緒方克彦氏が研究しているのが「コーピング」というストレス対策である。

 コーピングという言葉は、英語のcope(=対処する)に由来しており、数多くの研究で実績が証明されたストレス対処法である。うつ病患者なら聞いたことのある「認知行動療法」。このコーピングも認知行動療法に含まれる。自らのストレスの「観察」と「対処」を、意識的かつ徹底的に繰り返すことがコーピングの代表的な手法であり、この本では具体的な方法として100個の気晴らしリストを作ることを提案している。ストレスがかかった時に、作成したリストから気晴らし法を選び実践するのだ。

方法は至って簡単である。

⑴ できるだけたくさんの気晴らしリストをアップする(質より量)
⑵ 「認知するコーピング」も含める
⑶ 作成したリストを持ち歩く

……これだけである。

 そんな気晴らしする気も起きないというときは⑵で挙げた「認知するコーピング」を実践するといい。認知するコーピングとは……例えば「焼き鳥を食べる」「本を読む」などの具体的な行動ではなく、「今一番食べたいものを想像する」「宝くじが当たったらどうするか考える」など、何か思い描くことあれこれ想像することである。このような認知するだけのコーピングであっても、ストレスを感じたときに認知の癖がもたらす負のスパイラルをとめ、気分を変えるきっかけを作ってくれるのだ。

そこで私も実際に100個気晴らしリストを挙げて、実践してみた。

 

感想↓

 実践してすぐ気分が良くなるというものではない。(当たり前である)
 でも、気晴らし方法をリスト化し持っているだけで負の感情が溢れそうなときに何をすればいいのか、具体的に分かるのはとても為になる。(そのようなときは何も考えられないことが多いからだ)私は、将来に対する不安や現実に悲観しているとき、自分で考えるのを辞めるのが中々難しく、ズルズルとネガティブに考えてしまい、悪い方向にしか進まないことが多くあった。しかし、何かしら違う気晴らしになることをリストから考えてみる、行動してみる。すると前のようにズルズルと負の感情を考えることが減ったように思う。悪いことを考えないのは無理である。不安や悲観は無くならない。でもその考えを変えることはできるということを学んだ。もちろん、この方法がすべての人に当てはまるかは分からないし、感じ方、考え方は人それぞれである。だから「絶対やってみて」とは言えないが、ストレスを自覚し対処するという一連の流れを自分で知っておくのは今後為になるのではないかと思う。もしご興味あれば実践してみることをお勧めします。

(※私が作った気晴らしリストを例として最後に載せておきます)

 

参考書:
「キラーストレス 心と体をどう守るか」NHKスペシャル取材班 NHK出版新書503

 

気晴らしリスト100

⒈ 本を読む
⒉ 漫画を読む
⒊ 本屋へ行く
⒋ 図書館へ行く
⒌ クラシックの音楽を聴く
⒍ ロックの音楽を聴く
⒎ 雨音など自然の音を聞く
⒏ 歌を歌う
⒐ 瞑想をする
⒑ 日光を浴びる
⒒ 筋トレをする
⒓ 走る
⒔ 自転車に乗る
⒕ 写真を撮る
⒖ 現像する写真を選ぶ
⒗ 家に写真を飾る
⒘ 写真を家族のLINEに流す
⒙ 公園へ散歩に行く
⒚ 筆ペンで好きな文章を書く
⒛ 書道(写経)をする
21 炭酸水を飲む
22 温かいものを飲む
23 甘いものを食べる
24 アイスを食べる
25 ポテチを食べる
26 シャワーを浴びる
27 お風呂に入る
28 寝る
29 耳かきをする
30 爪を切る
31 誰かにメールする
32 家族に電話する
33 パンを焼く
34 料理をする
35 ケーキを焼く
36 クッキーを焼く
37 Youtubeでお笑いの動画を見る
38 鏡の前で笑ってみる
39 買い物へ行く
40 欲しいものリストを作る
41 やりたいことリストを作る
42 読みたい本リストを作る
43 掃除する
44 いらないものを3つ捨てる
45 写真をみる
46 映画を観る
47 日記を書く
48 日記を読み返す
49 ブログを更新する
50 ブログを読み返す
51 他の人のブログを読む
52 他の人のブログにコメントする
53 Twitterでつぶやく
54 Twitterのフォロワーさんにリプする
55 ゲームをする
56 今考えていることをノートに書く
57 小説を書く
58 大切にしている手紙を読み返す
59 自分の頬を両手で叩く
60 深呼吸をする
61 顔面・頭皮マッサージ
62 目を思いっきり瞑る→開ける
63 スガシカオのProgressを頭の中で流す
64 プロフェッショナル仕事の流儀の真似事をする
65 ビートルズのLet it beを頭の中で流す
66 家ついて行っていいですか?の真似事をする
67 深くため息をつく
68 手を洗う
69 手をマッサージする
70 空を見て雲の動きを観察
71 夕陽や夕焼けを見る
72 夜空、星を眺める
73 子どもと遊ぶ
74 子どもに絵本を読む
75 子どもと風呂に入る
76 子どもの将来を想像する
77 子どもの写真を撮る
78 花屋の前で色々な花を眺める
79 家の不便なところを考える
80 家の不便なところを変える
81 模様替えする
82 今まで読んだ本のランキングをつける
83 作家別のランキングをつける
84 好きな映画のランキングをつける
85 ラジオ体操をする
86 思いっきり泣く
87 家族にハグする
88 家族に「大好き」と伝える
89 手紙を書く
90 誰かにプレゼントする
91 「大丈夫」と声に出して言う
92 自分を褒める
93 「やってらんねー」と心でつぶやく
94 「なるようになる」と心でつぶやく
95 「お前も大変だな」と自分を慰める
96 今一番食べたいものを想像する
97 子どもが生まれたときの感動を思い起こす
98 将来住みたい理想の家を考える
99 宝くじがあったたら何に使うか考える
100 散髪する

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

 

幸せのハードル

 

 ミニマリストを目指しています。

 そらそら(@sorasorautsu)です。

 今回は「幸せのハードル」というタイトルでお話しします。

 

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 以前、「死のハードル」というタイトルで「うつ病患者は死のハードルが低くなる」というお話をした。あれから日々の生活の中で「死のハードル」を意識して生活していた。するとハードルには悪いものだけでなく、良いハードルもあると感じた。今回は「幸せのハードル」というタイトルで考えたことを記す。

 

 日常の生活には様々なハードルが存在する。「死のハードル」もその一種である。
「死のハードル」についてはこちら↓

 

sorsora-utsu.hatenablog.com

 

 

 ハードルは良いことでも悪いことでも、私たちが何か選択するときにそこに存在する。

 それには私たちの気分や気持ちも当てはまる。

 ストレスに対するハードルが低ければ、ストレスを感じやすくなるし、笑いのハードルが低ければ、ちょっとしたことでも笑ってしまうという具合である。


 では「幸せのハードル」とは何か。それはどのような出来事に幸せを見出せるかという感覚のことである。

 

 例えば、ある人にとって幸せとは、「年収1000万円以上の人と結婚し、大きな家を持ち、やりがいのある仕事をもって、家族全員が健康であること」という感覚だったりする。

 しかし、別の人にとって幸せとは、「おいしいものを食べられたとき」という感覚であったりもする。

 また、別の人にとっては「人から『ありがとう』と言われること」という感覚もある。

 

 このように、一言で「幸せ」と言っても様々であり、状況が同じでも「幸せ」と考えるかどうかはその人によって異なってくる。

 

 何に幸せを感じるかはその人の自由であるし、それがその人の価値観でもあるので、これが良い、悪い、とは断言できないし、ここではそのようなことを述べない。

 しかし、小さな些細なことでも幸せを感じている人がこの世界にはいるということは知っておいて良いと思う。

 つまり、「幸せのハードル」が低い人もたくさんいるということだ。

 このような人は、幸せのハードルが低い分、ハードルが高い人に比べて日常生活において多くの幸せを感じる機会がある。

 一言でいえば「お得」なのである。

 

 私はうつ病になって、この「幸せのハードル」が高くなっていた。

 健康な身体が欲しいし、経済的に困らない生活もしたい、仕事で成功したいし、欲しいものもたくさんある……今の自分にないものばかりが目に付く。

 このように私は自分で幸せのハードルを上げ続けていた。

 それは何も悪いことではない。

 理想を持つことは時に人のモチベーションを上げ、行動力を生み出す。

 そのような人によって社会は回っているといっても過言ではない。

 しかし、そのことばかりに捕らわれたために、日常生活で幸せを感じられないと勘違いすることは少し間違っている。

 何も特別でなくても良い。

 「おいしいものを食べられた」「本を読んで感動した」「熱中できる趣味がる」等……こんなことでも幸せを感じても良いのである。

 

 幸せは人によって異なる。

「だからこれが幸せだ」とは言えないし、言いたくもない。

 しかし、何も高いハードルのほうがより幸せかというと、そうでもなかったりする。

 私たちの日常生活にある様々なハードル、幸せのハードルは案外低かったりもするのだ。

 

 

 最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

成長は物差しでは測れない

 

読書をしていると心が落ち着きます。

そらそら(@sorasorautsu)です。

お越しいただきありがとうございます。

 

 今回は「成長は物差しでは測れない」というタイトルで書こうと思う。

 

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 私の好きな本の一つに「ピーナッツ」という本がる。

 皆さんご存知であろう、あのスヌーピーやチャーリーブラウンが出てくる物語である。

 そんなスヌーピーが出てくる物語には実は色々な生きるヒントが隠されている。

 今回のタイトルは「スヌーピー こんな生き方探してみよう」というタイトルの本から考えさせられた小題から頂いた。

 ここでは、その小題から得た学びと自分の考えを含めながら書こうと思う。

 

著しい成長期

 私の娘の話になるが、先日娘の通う保育園で身体測定があった。

 娘は入園してから10㎝ほど身長が伸び、体重もそれなりに増えていた。

 子どもの成長はなんと早いものなのか!

 身体面だけではない、この前まで何も話せなかったはずなのに、気づくと私のことを「お父さん」と呼び、先日なんか私が言ったことに対して「マジで?」と返してきたのだ!!

 これに関しては、喜びというよりかは反省をした。

 子どもは親の言動をしっかり見ている。

 正しい言葉遣いをしようと決意した日となった。

 このように、子どもの成長は著しい。

 身長や体重などの身体面で、そして精神面でも、目覚ましく成長していく。

 

目に見えない成長

 しかし、私たちはある年齢に達すると成長が目に見えなくなる。

 そのため人は成長過程を数値化することにより、自己の発達過程を表現してきた。

 それは身長や体重など身体面に留まらず、テストの点数や成績、取得した資格や年収も含まれるだろう。

 このため、人は、そのような数値化できるものだけが成長であると勘違いしがちである。

 

ここで、文頭で触れた本から一部引用する。

 

 国の成熟度が経済的数値だけでは表しきれないように、人の成長も社会的尺度だけでは測れません。それは、精神的成長を数値で示すことが不可能だからです。しかもたとえば病やリストラのように一見マイナスに見えることが、実はその人の人間的成長を促す大きなきっかけとなる可能性も少なくありません。人は人生の中で、前へ進むだけでなく、立ち止まったり、回り道をしたりするもの。しかし、視線を前へ向けている限り、いつまでも成長し続けることができるはずです。

 

 私が言いたかったことが上手くまとめられているので、これ以上言うことはほとんどないが……。

 私たちは社会的尺度によって自分の成長が見えていないと不安になることがある。

 人生前に進んでいないと、なぜか後ろめたいような気分にさえさせる。

 しかし、引用文にもあるように、人生は時に立ち止まり、回り道をするものである。

 まっすぐ進むのが良いとは限らない。

 立ち止まったことにより、気づけなかった風景を見ることができ、回り道をすることで思わぬ宝物を見るけることもある。

 

 うつ病によって私は回り道を余儀なくされた。

 そして自分が立ち止まってしまったことをよく後悔している。

 しかし、急がば回れということわざがあるように、実はこの回り道によって、他では得られない経験をし、その先には大きな成長が待っているのかもしれないのだ。

 

 どんな道でもいい。

 今は下しか見られなくても、最後には前を向き、胸を張って人生を歩んでいきたいと考えている。

 

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

ツレがうつになりまして。をみて

 写真を撮ることが好きです。

 そらそら(@sorasorautsu)です。

 お越しいただきありがとうございます。

 今回は「ツレがうつになりまして。をみて」というタイトルで映画の感想を書こうと思う。



 安っぽい感想だが、私にとってはとてもよかった。ツレとハルさんの苦痛・苦難を暗すぎず、重すぎず、軽すぎず、絶妙なバランスで、うつ病を知らない人にも見やすい形で映像化されている。一うつ病患者として映画を観ていて、「あぁ、それわかる」「わたしもそうだ」と共感できる箇所も多くあった。もちろん自分には当てはまらない事例もあった。うつ病と言っても、症状は人それぞれ。感じ方や考え方と同じように、症状も異なる。そこは「人によってこういう症状もあるのか」と考えさせられた。


 でもやっぱり映画、「現実はもっとひどい」とも感じてしまう。そうそう良くはならないし、薬だって全然減らせない。希死念慮自殺念慮はいつも心のどこかにあり、心休まることはない。体調がましな日があっても、あんなにすがすがしく感じ、笑える日なんてない。経験したからこそ分かる映画と現実とのギャップを感じてしまう。また、人によっては、「家があるからいいじゃないか」「理解ある家族がいるからいいじゃないか」と今の自分と比較し、悲観的に捉えてしまううつ病患者もいると思う。だから大声で「うつ病患者の人に見て欲しい」とも言いづらい。
しかし、この映画によって世間のうつ病への誤解や偏見が少なくなり、理解への入り口となったとも思う。もし、映画として本当にうつ病を描いてしまったら、暗すぎて、重すぎて、見る人は少なかっただろう。だから一番いい形で映像化されたのではないかと思う。


 ツレさんを見ていて考えたのだが、私はうつ病になり、ずっとそのことが恥ずかしく、かつ周りの人に申し訳なく思っていた。だから周りの人には自分がうつ病だなんて早々言えない。そんな勇気もない。うつ病への理解が広まっているとはいえ、まだまだ誤解や偏見もたくさんあるのも事実だ。それでも、自分がうつ病であると公言したツレさんはすごいと思った。とても勇気のいることだ。
誰もがツレさんのように公言したほうが良いとは思わない。やはり周りにはうつ病に対する理解に乏しかったり、誤解や偏見を抱いている人もいる可能性もある。またそのような人から変に自分の心に土足で踏み込まれ、体調が悪くなったり、治療の妨げになる可能性も十分あるからだ。


 でも、私はツレさんを見ていて、自分が心を許せそうな相手には自分がうつ病であると言っていきたいと感じた。正直、怖いと思う一面もある。でも今はそれと同じくらい、この病気のことを周りの人たちに理解してほしいとも思うからだ。このブログもそういう気持ちがあって生まれたものだ。もちろんこれは私が感じたことで、うつ病患者全員がこれをすべきだと言っているのではない。人それぞれで、タイミングもあると思う。


 グダグダと長く感想を書いてきたが、結局何が言いたいかというと、映画やブログ、直接人に言う等、どんな形であれ、この病気についてもっと正しい情報を発信し、理解を広めていきたい。これが映画を観て感じたこと、考えたことです。

 

 

 最後まで読んでいただきありがとうございました。