うつかんの本棚

うつ病になったアラサー看護師→現在「専業うつ」。病気・読書から得た情報を発信します。

看護師が看護される側になるまで

そらそら(@sorasorautsu)です。

今日は暗い気持ちが続いて、気分を変えるのが難しかったです。 

そこで過去を遡って自分を見つめ返してみました。


 ※ここでは、自分の生い立ちを記しながら、私がうつ病と診断される日までをまとめていきたい。読んでもらうというよりは、ここに書くことによって自分自身を振り返り、考え方の癖や思考の歪みを知れたらと思う。過去記事と内容が被っている個所もあるし、正直読んで楽しくはなく、まとまりもなく、落ちもない文章である。それでも読んでいただける方はお付き合い願いたい。

 

 どこまで遡るか考えたが、私の人生を変えたある一日から始めることとする。
 詳しくは覚えていない。私が中学生の時だ。ある日の晩、突然家族会議が行われた。議題は父の病気について。私の父は、優しく温厚な性格であり、一家の大黒柱として夜勤を含む不規則で忙しい仕事を長年続けてきていた。しかしその日告げられたことは、その父がうつ病になったということであった。「うつ病?それはどんな病気?」この時初めて「うつ病」という言葉を聞く。反抗期に入り、いきなり家族会議を開くといわれ、自分の時間を奪われたことに対してイライラしていた私は、素っ気なく「すぐ治るんでしょ?」と聞いたことを覚えている。私の問いかけはあいまいに流された。誰もうつ病について詳しく知らなかったのだ。今考えると、診断された本人も母も混乱していたのではないかと思う。いや、混乱していたはずだ。この日から父は仕事を休むこととなった。
 ちょうど思春期で反抗期でもあった私は、極力父に近づかないようにしていた。得体のしれない何かに接するように冷たく対応していたと思う。それは「うつ病」という病が理解できないことから生じる恐怖心や精神疾患への偏見などがあったためだと思う。思い返すとひどい息子だった。家では反抗していても、学校では充実した日を過ごしていた。友達で困ったことはなく、生徒会長をするなど、割と外交的で積極的に物事に携わるタイプだった。私が高校生になった時には父も復職していたと思う。記憶があいまいだが、それだけ疎遠な関係になっていた。高校一年生は平穏に過ごした。だが、高校二年生になった辺りから父のうつ病がひどくなり、休職や復職を繰り返し始めた。家でも家族に「死にたい」「殺してくれ」ということが多くなった。私も幾度となく繰り返されるやり取りにうんざりしており、「もっとがんばってよ」と、平気な顔で禁句を述べていた。私が夜遅くまで起きていて、トイレなどに行く途中、父の部屋の前を通るのだが、父の部屋を覗くと、父は必ずと言っていいほど、暗闇の中、布団の上で正座をして、何かに耐えていたのを覚えている。突然「死んでくる」と言って外に飛び出す日もあった。また包丁や金槌を持ってきて「これで殺してくれ」と泣きながら懇願される日もあった。その当時は本当に病状が悪化しており、ひどかった。うつ病に父だけでなく、家族みんなが振り回されていた。父の病状悪化に伴って、私の日常も狂い始めた。学校をさぼる日が日に日に増えていった。友達は次第に減っていき、教室では一人でいることがほとんどだった。家でも荒れていた。ついには高校側から、これ以上休むと進級できないとまで言われた。真っ暗な毎日だった。高校三年生になり、父が入院するようになる。正直ほっとしていた。それから不思議と私も学校へ行くようなり、無事高校を卒業する。しかし、私にとって高校生活は暗黒時代であり、今をしても高校の友達とは誰一人として連絡をとっていない。その後、私の人生は色々あったが大きな病気に罹ることもなく、ある程度平穏に過ぎていった。父のうつ病も治りはしないものの次第に小康状態を保つこととなる。


 こんな経験をしてきたためか、私は大人になるにつれ、父に対する過去の接し方を後悔し、次第に、同じように病に苦しむ人の近くで、当事者と家族を支えられる人になりたいと思い看護師を目指すようになる。誰かが幸せを感じでいる時よりかは、誰かが苦しんでいるときに近くにいられる人でありたいと思ったのだ。将来の目標を得た私は、看護学校ではこれまでにないくらい熱心に学んだ。勉強することが楽しかったし、充実した日々だった。

 そしてついに看護師として働き始める。緊張と不安の日々。毎日が学習で、あっという間に過ぎていった。働いているという達成感があった。このまま看護師としてキャリアを重ね、進んでいこうと思っていた。しかし働き始めて間もなく、身体が仕事を受付けなくなっていった。まずは食欲が落ちていった。朝食が食べられなくなり、次に昼食、そして夕食の摂取量も減っていく。それと同時に「早く寝て次の日に備えなければ」という強迫観念にも似た気持ちが襲い始め、早く寝ようと布団に入るが明け方まで全然寝られない日々を過ごす。夜中汗びっしょりになって飛び起きることもあった。原因はわからなかった。職場の人は、それは合わない人もいたが、そこまでストレスになっているとは思っていなかったし、他の病棟と比べるとまだ残業も少ない病棟だった。だから最初は精神的なものが原因ではないと思っていた。しかし体重は減り続け、身体が弱ると次第に精神も弱っていった。家では隠れて泣くことが増え、仕事のことばかり考えるようになっていった。いつも身体と心が緊張していた。ついには仕事の休憩時間にも大泣きし、泣きつくように妻に電話する日もあった。そしてついに身体が、心が動かなくなった。布団から起き上がれず、仕事に行けなくなった。そんな私の状態を見ていた妻が、髭もそらず、髪もぼさぼさな状態な私を精神科へ連れて行ってくれた。そして医師からうつ病と告げられた。


 これが、私がうつ病と診断され、看護される側になるまでの経緯である。過去の、父のうつ病が影響しているかは分からない。原因も分からない。ただまず身体が、次に精神が病んでいった。そして一度病んだ精神は中々良くならないことを知った。近くで長年うつ病を見て、専門的に学ぶのと、自分がうつ病になるのとでは大きな違いがあることを知った。そして私はここで初めて父の苦しみを理解することとなった。私のうつ病闘病生活はこうして始まった。

 

 報われない話を長々と読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

死のハードル

 

死に関する記事が増えてきました。

そらそら(@sorasorautsu)です。

お越しいただきありがとうございます。

 

今回は「死のハードル」というタイトルで記事を書きます。

 

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 「ハードル」という単語を聞いたとき、皆さんは何を思い浮かべるだろうか。私は陸上競技で用いるハードルを思い浮かべる。今回は、このハードルを例えにして、実は私たちの身近にある「死」について考えたことを書こうと思う。

 

ハードルを飛ぶためには

 私たちがハードルを飛ぼうと考えた時に、どのような準備をするだろうか。

 まずはハードルの高さを見るだろう。自分はこの高さのハードルを飛べるだろうか、と考えるはずだ。

 次に、自分とハードルの位置関係を見るだろう。そして自分の能力とハードルの高さに見合った必要な助走距離を考えるだろう。

 このように考え、必要な助走とハードルの高さに見合った力でハードルを飛ぶことと思う。

 

高いハードル

 私たちの生活には様々な「ハードル」が存在している。

 健康であれば気付きにくいのだが、実は「死」というものも、私たちの生活に多く存在しているハードルの一つである。

 

 例えば通勤時、ホームで電車を待つが、一歩線路側に踏み出せばそこにあるのは「死」である。

 また高い建物に上った時、そこにも一歩踏み出し落ちれば「死」が待っている。

 運転中、少しアクセルを強く踏めば、簡単に「死」に近づくだろう。

 

 このように考えると、私たちが普通に生活していて死ぬ可能性はたくさんある。

 しかし、多くの人はそこで「死」を選ばないであろう。

 まず、そもそも「死」のハードルを飛ぼうと思わないはずだ。

 次に飛ぼうと思っても、そのハードルは高く、助走もなく、飛べないはずである。だから私たちはそう簡単に自ら「死」のハードルを飛ばない。

 

「死」のハードルの高さ

 ここで私が感じている、うつ病が惑わす死のハードルの高さについて考えを記す。

 先ほど述べたように、普通、死のハードルは高くて飛べない。

 では、うつ病の精神症状である希死念慮自殺念慮は、その死のハードルを飛べるくらいの力と助走を患者に与えてしまうものなのか。

 私が感じているのはそのようなイメージではない。

 私が感じているイメージはどちらかというと、日常生活において死のハードルが簡単に飛べるくらいに下がるというものである。

 私たちが強く飛ぼうと思って、必要な助走を得て飛ぶ、というよりかは、死のハードルが低くなりすぎて、ふとしたことでそのハードルを越えてしまうというイメージだ。

 そのように考えてしまうのがうつ病だと私は思う。

 

 ハードルが低くなるとどうなるのか。まず、日常生活の健常者では考えないような場面で死を身近に認識する。

 どこにいても、何を考えていても、簡単に死ねると考えてしまう。

 そして、飛ぶために強く決断しなくても、簡単に死を選びやすくなる。

 助走は必要ないのである。

 まるで飲食店で料理を注文するような感覚で、ふと「死のうか」と考え、ハードルを越えるという誘惑を受ける。

 このように、うつ病は死のハードルを下げる病気だと感じている。

 

死のハードルは人によって高さが異なる

 今回、この例えを思いついたのは、妻に私が感じている希死念慮自殺念慮について説明するときに考えたものだった。私にとっての希死念慮自殺念慮は、とても苦い経験をしたために死ぬ選択をする、というよりかは、「死んじゃおっか」という至って軽い死の選択が身近にあることを考えさせるものだった。(これは人によって異なるだろう)だから私は死にたいとき、「何が自分の死のハードルを下げてしまったのか」と考えるようにしている。

 

 その他の「死」に関する記事はこちら↓

 

sorsora-utsu.hatenablog.com

 

sorsora-utsu.hatenablog.com

sorsora-utsu.hatenablog.com

 

 

 最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

私がうつ病になってよかったこと

 

 空腹感はあるのに食欲のない日を過ごしています。

 そらそら(@sorasorautsu)です。

 お越しいただきありがとうございます。

 

 今回は「私がうつ病になってよかったこと」というタイトルでお話しします。

 

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 こんなタイトルで記事を書こうとしているなんて、私も頭がおかしくなってしまったのだろうか。正直、うつ病になってよかったことなんてない!とはっきり言える。それだけ苦しく理解の得られていない病気の一つであると感じている。

 

 では、なぜこんなタイトルで記事を書こうと思ったのか。それは将来、この病を乗り越えたときに「この経験が無駄ではなかった」と言えたらいいな。そう思ったからだ。現実問題、いつ寛解できるのか、再発の危険、そもそも一生付き合っていかないといけないのでは……など不安要素は山ほどあるのだが……。いつも将来に対する不安ばかり考えて落ち込んでいるので、せめてブログ内ぐらいは将来を少し楽観視したい。

 

 話は少しずれるが、私はうつ病と診断され少し経過してから読書の魅力にはまってしまった。(診断されてしばらくは読書どころか寝たきりだったのだが……)うつ病は良くなったり悪くなったりを繰り返しながら寛解へ向かうのだが、私も荒波に飲まれながらも、何かに興味を持てるようになるほど体調は少しずつ良くなっているようだ。それからは体調の良い日に色々な本を読んだ。そしてたくさんの本から生きる力をもらった。
 
 たくさん読んだ中でも特に力づけられた本がある。聖路加国際病院名誉委員長・同理事長である日野原重明氏の著書「道は必ずどこかに続く」である。
 日野原先生は御年105歳。医療業界ばかりでなく、世間的にも大変有名な方である。そんな誰もが認める「成功者」にも様々な挫折があったようだ。
 日野原先生が大学の医学部に入学した時、日野原先生は結核と診断され、休学し療養することとなった。突然の病、そして人生設計の狂い、自分だけ周りから取り残されるような、まっすぐなレールから振り落とされるような気持ち……相当悔しかったようである。これは私や多くのうつ病患者も似たような経験をしてきたことだろう。日野原先生も相当焦ったようであるし、落胆もしたようだ。日野原先生の場合、約一年の療養で回復し、復学できたようである。(正直、うらやましい限りである)その後、自分が病に倒れた経験を活かして、患者第一の医療を提供し続けるために、医療業界に大きな影響を与えてきた。まさに挫折や苦難が後にエネルギーとなり、世の中に必要とされているものを生み出した良い例である。日野原先生は著書でこのように語っている。

 

 「人生最悪の経験が、さまざまな経験を経てることで、あれはかけがえのない体験だったとわかってくる……」

 

 私がうつ病で苦しんでいるときにこの言葉を読んだが、正直、病気が完治して成功できたからそう言えるのだと否定的な解釈しかできなかった。実際病で一生苦しむ人もいるのだ。しかし、よくよくこの文章を読むと「さまざまな経験を経ることで……」と書かれている。人は今が最悪な状況でも、この先どうなるかは誰にも分からない。その経験が何に役立つか分からない。これは確かに事実である。未来は誰にも分からないのだ。この先どんな経験をするかで、人の価値観など簡単に変わる。

 

 冷静に自分の闘病生活を振り返って考えてみると、うつ病になったからこそ気づけたことも多々あった。うつ病の苦しさを知り、長年、うつ病である私の父や同じような病で苦しむ方の気持ちや葛藤を知れた。この病が世間的にまだまだ受け入れられておらず、誤解があることを知った。病気とわかると離れていく友人、逆にどんな時でも支えてくれる家族がいることを知った。病気にならないと分からないことは山ほどある。それはある意味特権でもある。(多くのうつ病患者はそんな特権いらないと思っているであろう)私は、病気は苦しくていやだ。この意見は変わらない。でも病気になってこそ知れることがあるのも確かである。

 

 病気になったからこそ気づけたことは確かにあるが、病気になってよかったことは……(ここまで読んでいただいたのに申し訳ないが)正直現段階で分からない。でもこの先ずっと分からないとは限らない。将来、どんなことが待ち受けているのかは誰にも分からない。だから、うつ病になってよかったと言える日が来るかもしれない。そんな簡単に考えられないのも事実だが……この闘病生活が、「いつかかけがえのない体験」になるのかも知れない。それは私に限らず誰にとっても可能性のあることなのだ。自分が望んだ道とは異なるかもしれないが、この道は必ずどこかに続いているのである。

 

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

 

 

逃げるは恥だが、死ぬなら逃げろ

 

毎日逃げてばかりいます。

そらそら(@sorasorautsu)です。

お越しいただきありがとうございます。

 

 今回は「逃げるは恥だが、死ぬなら逃げろ」というタイトルでお話しします。

 

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 今回のタイトルは、言わずともわかると思うが、昨年放送されたドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」を真似してつけてみた。そして、後半の「死ぬなら逃げろ」という言葉は、私がうつ病になり、とても希死念慮が強かった時に読んだ本に書かれていた言葉から頂いた。そう、今回は(タイトルとは相反するが)「逃げるのは恥じゃない」「死ぬくらいなら全力で逃げろ」というメッセージを込めて書こうと思う。

 

逃げるのは恥ずかしいことなのか

 私が子どもの頃、よく多くの大人に言われた言葉。

「逃げるな」

「努力しろ」

「壁を乗り越えろ」

「がんばれ」

「何かうまく物事が進まないときは自分に原因がないか考えろ」…

 

 …人生の局面に立たされた時にどう対処すべきか、なぜか多くの大人は…

「逃げることが恥である」

「他人のせいにするのは恥である」

「何事も努力して乗り越えたほうが良い」

 と教える。そして、逃げないで成功を得た人を称える。
 

 確かに、この世の中を良くしてきた多くの偉人たちは困難・苦難に立ち向かい、その結果、偉業と言われることを成し遂げてきた。発明品でいうなら、私たちの周りにある、時計、携帯電話、パソコン、テレビ、自動車、洗濯機、レンジ、オーブン……挙げたらきりがない。私たちは、その恩恵を享受し、現在生活している。それは一つの事実である。私たち人類は困難から逃げないことによって生活を良くしてきた。しかし、いつしか「逃げないことが良いこと」→「逃げることは恥ずかしいこと」に変わっていった。
 

 「責任から逃れる」「困難から逃げる」……このように「逃げる」とは、しばしば否定的な言葉で用いられることが多い。しかし、慣用句にはこのような言葉もある。 

 

 「逃げるが勝ち」…

 …「争わないで相手に勝ちを譲るほうが、大局的に見れば得策である」

 という意味である。

 逃げるのが良いとされることもあるのだ。

 時に逃げることは恥でも何でもない。

 むしろ賢い選択となる。

 

なんでも逃げなければよいというわけではない

 目の前に命に係わる事態が生じたとき、誰もが逃げるだろう。

 例えば火災で火が燃え広がった時、初期消火ではとても火が消せないと分かった時は誰もが逃げる。この場面で一人「逃げるのは恥だ」と言っている人がいたら、ちょっとおかしい。


 では、なぜ困難から逃れることが「恥」になってしまったのか。これは先ほどの例からも言えるように、「逃げなくても死なないから」という前提があるためだと思う。命に係わることとなれば、逃げるのは当たり前であるが、「死ぬ気でやって死ぬやつはいない」という言葉があるように…

 実際困難に立ち向かっても死なない

 ↓

 だから勇気を持って立ち向かえ

 ↓

 立ち向かわない者は勇気がない

 ↓

 恥

 …というように世間で考えられる傾向があるためだと思われる。

 

うつ病は逃げないと死ぬ病気

 ここではっきりさせたいことがある。

 それは、「うつ病は生死に係わる病気」ということである。

 このことについて、反論する人もいることと思う。未だに「うつ病は甘え」「精神疾患は気の持ちようで治る」と考えている人たちがそうであろう。

 このように考える人たちは、「うつ病が『がん』や『脳血管疾患』などのように器質的な問題で死を招くのではなく、心理的・精神的に死を招く病気である」ということを理解していない。


 日本では年間2万人以上の人が自殺をし、自らの命を絶っている。若年者の死因第一位は自殺である。自殺した多くの人は精神疾患があったというデータもある。このことからも分かるように、うつ病は生死に係わる病気である。

 
 もし、このブログを読んでいて、死にたい気持ちがある方がいたら…

 「全力で逃げろ!」

 …と言いたい。重ねて言うが、この病気は逃げないと生死に係わる病気である。逃げることが恥ずかしいと思ってしまう人もいるだろう。しかしそれでも「逃げろ」と言いたい。そして、生きるために逃げることは何も恥ずかしいことではないと言いたい。

 

逃げた先にあるもの

 私は、「逃げる」ことは自分にとってより生きやすい環境を探すことだと考えている。何も無理して、それも生死に係わるほど、今の環境に留まることが良いことだとは全く思わない。それは見方を変えれば、現状維持で満足していると言えなくもない。


 後ろ向きに思いっきり逃げたために、新たなる助走を得て乗り越えられる壁も存在する。
 時にはより歩きやすい道を選んだっていい。それは賢い選択でもある。
 逃げた先にしか見えない未来が必ずある。

 

 最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

 

もう死のうと考えた時に起こったこと

 

 最近集中して本を読めません。

 そらそら(@sorasorautsu)です。
 お越しいただきありがとうございます。

 

 はじめに……
 これまでの記事では、読者になるべく読みやすいように考えながら文章を構成してきました。そのため自分の感情を少し抑えて記事も書いてきました。しかし、そのことに集中するあまり、自分の本当に言いたいことや考えていることに言及できないのも良くないと感じました。そのため、これからはもっとフランクに、良い意味で気楽にブログを記していきたいと思います。

 

今回は「もう死のうと考えた時に起こったこと」というタイトルでお話しします。

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自殺を思い止まらせるもの

 過去記事で希死念慮自殺念慮について書かせていただいたが↓

 

sorsora-utsu.hatenablog.com

 

 私にも希死念慮自殺念慮はある。
 健康な時は一度も考えたことはないのに、うつ病になってからというもの、どうしよもなく死にたい願望が強い。
 でも不幸中の幸いなのか、私は自殺だけは絶対したくないという意思がある。
 なぜならそれは周りの人をとても悲しませる行為であるし、自分であれ殺人であるし、自殺した後のことを考えると色々恐ろしいから…
 …と色々言い訳を言うものの…
 …つまりは自殺する勇気がないからである。

 だって痛いでしょ。
 苦しいでしょ。
 「もうこんなに苦しんでいるのに、これ以上自分からわざわざ苦しくなるのは嫌だ」
という、なんとも自分本位な理由である。

 

 自殺を選ぶ方はそれ以上に生きていることが苦しいということなのだと思う。
 だから自殺された方を否定するつもりは全くない。
 むしろそれだけ自分の人生を一生懸命歩んで来たがための選択であったのかもしれない。

 

 よく「なぜ自殺してはいけないのか」という問いがある。
 答えの中には、先ほど私が挙げたような「人に迷惑がかかるから」「人を悲しませるから」という周りの人への影響を挙げたものから、「自殺したらあの世では地獄に行く」等の霊的・宗教的な回答、そして私が考えている「苦しいから」という自分本位な理由まで様々である。
 ここではその問いに答えることはしない。
 (私ごとき人間はそんな難しい問題に答えられない)

 

 でも正直、自殺を思いとどまらせるものであれば、どんな理由でもいいと思う。
 周りの人のためであっても、自分本位の理由であっても、何かほかの理由であっても…

 …きっと、生きているというのは、それだけで儲けものなのだ。


私の自殺を思い止まらせたもの

 今はこのように考えている私であっても、過去に一度、どうしよもなく死にたくなって高いアパートから下を覗いたことがあった。
 ふと「落ちてみようか」と思ったのである。
 しかし、下を見ると…
 …さっきまでいなかったのに、そこには保育園から帰ってきた妻と子どもがいて、私に手を振っていた。
 そこでふと我に返る。
 そしてその場で泣き崩れた。
 やっぱり死ねないって。
 どんな理由であれ、生きることから逃げちゃダメだって。

 

 人は例え天涯孤独の身であったとしても、他者がいないと生きていけない。
 人に支えられて生きている。
 生かされている。
 死にたい人はそのことに気付けないくらい孤独で苦しい道を歩いている。

 

 自殺者は一時期3万人を超えており、現在は徐々に低下しているが、それでも年間2万人以上の人が自ら命を絶っている。
 

 誰でもいい、どんな理由でもいい、その2万人の近くにいられなかったのだろうか。
 止められなかったのだろうか。

 

 自殺者の気持ちが少しわかる、今の状況の自分であるからこそ、できることはないのか。……と考えている。

 

 今回は何のまとまりもない、ただ自分が思ったことを記事にした。
 こんなことを偉そうにブログに綴っても意味ないことは分かっている。

 

 ただ自殺がなくなればいいと心から思い、願っている。

 

 最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

 

うつ病患者を支える家族の苦悩(差別する気持ちと闘う日々)


 こたつで春をじっと待っています。そらそら(@sorasorautsu)です。
お越しいただきありがとうございます。
 

  今回は、「うつ病患者を支える家族の苦悩(差別する気持ちと闘う日々)」というテーマでお話しします。

 

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軽視されがちな家族へのケア


 うつ病と診断されると、言うまでもなく、まずうつ病患者本人へのケアが重要である。
 しかし、うつ病と診断された場合、患者本人だけではなく、その家族へのケアも非常に重要となってくる。

 

うつ病患者の家族-私の経験


 私は一うつ病患者であると同時に、うつ病患者の家族でもある。

 私が中学生の時に、父がうつ病と診断されたのである。

 

 ある日突然家族会議が行われ、父が「仕事には行けない」「病気になった」「うつ病らしい」と言うのだ。
 最初は何を言っているのか全然理解できず、「え?うつ病?なにそれ?」「すぐ良くなるんでしょ?」という感じであった。
 一家の大黒柱である父がいきなり折れたのである。
 驚きよりは唖然としたのを覚えている。
 まさかその時、その病気によって家族全員がその後10年以上にわたり振り回されることになるとは、誰も想像していなかっただろう。
 
 うつ病になったのは父である。

 しかし父のうつ病は家族全員の生活を一変させた。
 父親が毎日家にいるという目に見える変化から、家族全体に漂う雰囲気という目に見えない変化まで、うつ病は患者本人だけでなく、周りで生活する家族全体を徐々に暗くさせていった。

 

 父のうつ病は次第に悪化していく。
 毎日のように「死にたい」という言葉を聞き、死んだような目で何かを訴えかける。
 当時私は思春期でもあり、そんな父を一人の男として、父親として認めることができず、今ではうつ病患者に禁句であると常識になっている「もっとがんばってよ」という言葉をよく浴びせていた。
 正直、精神疾患に対して差別的な気持ちもあったと思う。
 父の病気を認めたくないという気持ちや病気への差別する気持ちと闘う日々が続いた。
 今思うと酷い息子であったと思う。
 ただ、その当時は自分も必死だった。

 

 父の病状が悪化すると、周りの家族はさらにうつ病に振り回されることとなる。
ある日突然、父が「死んできます」と言葉を残し、外に出ていく。慌ててその姿を追い、父を探し回り、家に連れ戻す。
 また家では、包丁や金槌を持ち出して、私に差し出しながら「殺してくれ」と泣きながら何度も懇願する。
 このようなことは2度3度ではなかった。
 正直本当に殺したいくらい、うつ病が憎かった。
 患者本人からだけでなく、家族からも平穏な日々を奪っていく。

 今でもその当時の出来事が夢に出てくることがある。
 一種のトラウマと化している。
 
 そのような状況になり、その後、父は精神科の閉鎖病棟へ入退院を幾度となく繰り返すこととなる。
 父のいない生活に正直ホッとする。

 このように家族は疲弊していく。
 私の青春時代は父のうつ病で黒く塗りつぶされている。
 もう二度とあの日々には戻りたくはない。
 
 以上は私の体験であり、うつ病患者も、患者を支える家族にも様々な状況があり、異なる体験があることだろう。
 しかし、共通して言えることは、うつ病は患者本人だけでなく、家族への影響も大きいということである。

 

家族を苦しめる要因と対策


 では、何がそんなにもうつ病から受ける影響を大きくさせてしまったのだろうか。私の経験から紐解くと……
 ① うつ病を正しく理解していなかったこと
 ② うつ病との距離感を正しく保てなかったこと
以上の2点が大きな要因であったと感じる。

 では、どのようにすれば以上の2点に対応できるのか。そして、うつ病患者に振り回されずに、家族全員の健康を維持できるのかについて考えを述べたいと思う。
 うつ病患者の家族としてうつ病に振り回された生活をしたくないなら……

 ① 患者だけでなく、その家族もうつ病を受け入れ生活していくこと
 ② 患者の状態に合った心理的・物理的距離を保つこと
以上の2点が必要である。

 

 病気を理解するためには、まず病気に対する正しい知識が必須である。うつ病に対する正しい知識があって初めて正しい理解ができる。そして、時間はかかるかもしれないが、最終的に患者も家族も病気を受け入れることができるのである。
 うつ病の精神症状・身体症状を理解していれば、一歩下がって病気を捉えることができ、患者の言動が、病気の症状での言動なのか判断ができる。すると家族も「病気が言わせている」と、ある種割り切って患者に接することができ、患者に寄り添いながらも、心理的には一定の距離を保つことができる。また、医師の判断のもと、必要ならば入院等の物理的距離を置くことも患者・家族双方にとっての休息となる。

 このように良い意味で患者とある一定の距離を保つことは、病気の理解を深め、患者・家族の健康にとっても重要なものとなる。

 

 うつ病についての情報は今やネットや数々の書籍に多く存在している。情報源が信頼できる所ならどこからでも情報収集ができることだろう。
 しかしここであえてお勧めしたいのは、(患者が認めるなら)毎回でなくてもよいので、うつ病患者が医師の診断を受けるときに、一緒に受診室へ入り、診察を隣で受けることである。患者と一緒に受診すると、うつ病についての基礎的な知識はもちろん、現在の患者の状態や治療経過も知る機会となる。また本人の状態や対応について直接医師に相談することもできるだろう。医師としても、患者の家での状態について第三者から情報を得ることができ、治療に役立てることができる。

(※病院や患者の治療経過によっては、医師と患者の一対一での診察が重視されることもあるため、患者とともに診察を受ける際には病院側へ確認したほうが良い)

 

 以上は一患者、一うつ病患者の家族としての経験から学んだことを述べた。これがすべてのうつ病患者や家族に当てはまるものでないと理解した上で、うつ病の正しい理解・治療へ役立てていただければと思い記した。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 

「専業主夫」から「専業うつ」へ

 

こんばんは。

天気が良くても外に出られない、そらそら(@sorasorautsu)です!

今回は「『専業主夫』から『専業うつ』へ」というテーマでお話しします。

 

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「無職」になった日

 今まで「アラサー看護師→現在主夫」と宣言してきたが……

 本日をもってしばらくは「主夫」宣言を辞める。

 

 私はうつ病になり、仕事を辞職した。

 私の肩書は看護師から無職になった。

 

 うつ病と診断された時と仕事を辞めた日のことは嫌でも忘れられない。

 うつ病と診断されたとき、診断書をもって職場に行くと、看護師長に「みんな苦しくて、それでも仕事をしているんだよ。仕事ってそういうものだよ。」と言われた。

 今でも考えるが、私が休職を願い出たのは甘えだったのだろうか。

 病人を相手にする仕事なのに不思議と医療業界でも「うつ病」は理解されていないのが現実である。

 2か月の休職期間が終わった後、看護部長に「今までたくさんあなたに配慮してきた。うちではこれ以上何もできない」と言われ、辞職を勧められた。

(今思い返すと、何に配慮してくれたのか分からないくらい何もしてもらった覚えはないが……)

 それで半分言われるままに、目の前で辞職届を書き、「今までご迷惑をかけ申し訳ありませんでした。お世話になりました。」と言って職場を逃げるように出てきた。
 

 すぐには家に帰れなかった。

 職場を出てすぐそこにあるベンチに座り、しばらく泣いた。

 今日から私は無職だ。何もかも情けなく感じた。
 今、ニュースに出るようなことを起こせば本名+無職の男性と言われるのだろうか等、どうしよもないことを考えていた。

 

専業主夫」になりたい

 仕事を辞めてから、できるだけ家での仕事(家事・育児等)はやりたいという気持ちがあった。私が働けなくなったために一生懸命外で働いてくれる妻に、本当に申し訳なく思うという気持ちや、正直、自分も何かしら社会的役割を担っているという実感が欲しかったからだ。

 

 病気のため働かないで家にいる。

 この現実から少しでも目を逸らしたかったし、何かしらの肩書が欲しかった。

 

 つまりは、この状況を誰かに認めてもらいたかったのだと思う。

 

 だからあくまで「主夫」であると宣言してきた。

 

 しかし現実問題、私の体調は家での仕事ができるくらい回復はしていない。体調の悪い日は、文字通りトイレ以外は布団から起き上がることができない。体調が良くても、できてゴミ出し程度である。もちろん子どもの面倒もほとんどみられない。

 

 それに、そもそも主夫とはそんなに楽な仕事ではない。掃除に洗濯、食材や日用品の買い出しに、料理、家での収入費の管理、それらの仕事と並行して子育て。さらに自治会や子どもが学校に行っていたらPTA等もある。実際にはもっとあって、一つ一つ細かく挙げたらきりがない。ネットで見ると、専業主婦(主夫)の仕事を年収にすると約500万円らしい。(アメリカの求人・求職サイトでは年収1200万と換算されたこともあるとか)そのことを考えると……急に、世の中の専業主婦(主夫)の皆さんに頭を下げたくなった。ごめんなさいと。

 

「専業うつ」と認める

 
 話が少し飛ぶが、最近Twitterをはじめ。

 そして同じような病で苦しむ方と交流し始めた。

 「自分だけじゃないんだ。」

 Twitterを始めて、フォローしている方に力をもらったことも多くある。

 

 そんな私を力づけてくださる方の一人に「松桐谷まこ」さんという方がいる。Twitter経由でまこさんがブログを書いているのを知り、今まで人様のブログを読んだことなどなかった私だったが……私はまこさんのブログにはまってしまった。(実をいうと、このブログ「うつかんの本棚」も、まこさんの影響で始めた)

 

 まこさんはブログの中で、自分が「専業うつ」である、という表現を用いていた。

 

 これを読んだとき「これだ」「まさに私は専業うつだ」そう思った。

 私は肩書ばかり気にし、小さく、不必要なプライドを守ってきた。

 だけど今の私に必要なのは、そんなどうでもいいプライドではないと感じた。

 

 恐る恐る、まこさんに連絡をとる。

 「私も専業うつを名乗ってもいいですか」と……。

 答えはYESだった。

 まこさん、こんな一方的なお願いを聞いてくださり、ありがとうございます。

 

 そこで私は今日から「専業うつ」であると宣言します。

 家事をやらない言い訳にしたいわけではないので、少しづつ主夫になれるように、専業うつを卒業できるようにしていきたい。

 でも、まずは自分が「専業うつ」であるということを認め、受け入れて前に進みたい。そういう決意を込めて宣言します。

 

 温かい目で見守っていただけると幸いです。

 

 私が感銘を受けた「松桐谷まこ」さんのブログはこちら↓です。

 

damemoto.net

 


 最後まで読んでいただきありがとうございました。