死のハードル
死に関する記事が増えてきました。
そらそら(@sorasorautsu)です。
お越しいただきありがとうございます。
今回は「死のハードル」というタイトルで記事を書きます。
「ハードル」という単語を聞いたとき、皆さんは何を思い浮かべるだろうか。私は陸上競技で用いるハードルを思い浮かべる。今回は、このハードルを例えにして、実は私たちの身近にある「死」について考えたことを書こうと思う。
ハードルを飛ぶためには
私たちがハードルを飛ぼうと考えた時に、どのような準備をするだろうか。
まずはハードルの高さを見るだろう。自分はこの高さのハードルを飛べるだろうか、と考えるはずだ。
次に、自分とハードルの位置関係を見るだろう。そして自分の能力とハードルの高さに見合った必要な助走距離を考えるだろう。
このように考え、必要な助走とハードルの高さに見合った力でハードルを飛ぶことと思う。
高いハードル
私たちの生活には様々な「ハードル」が存在している。
健康であれば気付きにくいのだが、実は「死」というものも、私たちの生活に多く存在しているハードルの一つである。
例えば通勤時、ホームで電車を待つが、一歩線路側に踏み出せばそこにあるのは「死」である。
また高い建物に上った時、そこにも一歩踏み出し落ちれば「死」が待っている。
運転中、少しアクセルを強く踏めば、簡単に「死」に近づくだろう。
このように考えると、私たちが普通に生活していて死ぬ可能性はたくさんある。
しかし、多くの人はそこで「死」を選ばないであろう。
まず、そもそも「死」のハードルを飛ぼうと思わないはずだ。
次に飛ぼうと思っても、そのハードルは高く、助走もなく、飛べないはずである。だから私たちはそう簡単に自ら「死」のハードルを飛ばない。
「死」のハードルの高さ
ここで私が感じている、うつ病が惑わす死のハードルの高さについて考えを記す。
先ほど述べたように、普通、死のハードルは高くて飛べない。
では、うつ病の精神症状である希死念慮・自殺念慮は、その死のハードルを飛べるくらいの力と助走を患者に与えてしまうものなのか。
私が感じているのはそのようなイメージではない。
私が感じているイメージはどちらかというと、日常生活において死のハードルが簡単に飛べるくらいに下がるというものである。
私たちが強く飛ぼうと思って、必要な助走を得て飛ぶ、というよりかは、死のハードルが低くなりすぎて、ふとしたことでそのハードルを越えてしまうというイメージだ。
そのように考えてしまうのがうつ病だと私は思う。
ハードルが低くなるとどうなるのか。まず、日常生活の健常者では考えないような場面で死を身近に認識する。
どこにいても、何を考えていても、簡単に死ねると考えてしまう。
そして、飛ぶために強く決断しなくても、簡単に死を選びやすくなる。
助走は必要ないのである。
まるで飲食店で料理を注文するような感覚で、ふと「死のうか」と考え、ハードルを越えるという誘惑を受ける。
このように、うつ病は死のハードルを下げる病気だと感じている。
死のハードルは人によって高さが異なる
今回、この例えを思いついたのは、妻に私が感じている希死念慮・自殺念慮について説明するときに考えたものだった。私にとっての希死念慮や自殺念慮は、とても苦い経験をしたために死ぬ選択をする、というよりかは、「死んじゃおっか」という至って軽い死の選択が身近にあることを考えさせるものだった。(これは人によって異なるだろう)だから私は死にたいとき、「何が自分の死のハードルを下げてしまったのか」と考えるようにしている。
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